京都こども文化会館ありがとうコンサート(6)2020年10月4日

一人一人が思い思いの昼休みを過ごした後、午後2時、開演。
懐かしい響きのブザーを聴いたら、いざ、本番。
「京都こども文化会館ありがとうコンサート」は『威風堂々第1番』で幕を開けました。

司会はクラリネット奏者の A さん。
司会原稿はテューバ奏者 兼 副指揮者の K さんが、
ベテラン団員にインタビューして構成してくれました。

2曲目の『花は咲く』の後で、
コンサートマスター U さんのコメントが紹介されました。
こども文化会館は京都市電・北野線の車庫跡に建設されたものです。
ホール玄関の外には、市電の記念レリーフがあります。

また、名物のからくり時計も。

閉館となってもこれらは残してほしいとのコメントでした。

3曲目の『オリエント急行』を演奏した後、約10分の休憩。
客席には20~30人程度の関係者の方々がいらっしゃいました。
奏者が客席へ降りて談笑したり、
奏者のご家族が逆に舞台上に上がって来られたりと、
普段の本番では考えられないことが出来たのも、
「ありがとうコンサート」ならではでした。

ユーフォニアムの F さん、
サックスの S さんのコメントが紹介された後、
4曲目の『恋のカーニバル』を演奏しました。

次のコメントはパーカッション・リーダー K さん。
1989年の5楽団合同演奏会「音楽の病」でステージマネージャーをしてくれた時の思い出を語ってくれました。

そもそも、第4回せせらぎコンサートを開催するために、
当時まだ「堀川吹奏楽団」と称した「せせらぎ」がこども文化会館を借りたのでした。
にもかかわらず、
団員数不足で「せせコン」を開けそうもない。
そんなこんなで、当時、吹奏楽連盟の行事に合同出演することの多かった4つの楽団に声を掛け、
合同演奏会をすることにしたのです。
その演奏会の名前が「音楽の病」。
音楽という病に憑りつかれた者たちの「病膏肓に入る」音楽会、
そんな思いを込めました。

ただ、私たちは大きな間違いを犯していました。
こども文化会館に申し入れず、勝手にことを進めていたのです。
主催者が「堀川吹奏楽団」から「5楽団合同バンド」に変更となっている訳ですから、
きっとお堅いことを言えば「堀川吹奏楽団」としての予約を一旦返上し、
「5楽団合同バンド」で予約し直さないといけなかったのだと思います。
若い僕らはそんなことも分かっていませんでした。

会館からはこっぴどく叱られました。
が、予約取消となることもなく、
「音楽の病」を開催することが出来たのです。
きっと、
「こいつら若いし、しゃあないな、今回はまあ大目に見といたろか」
と思ってくださったのだと思います。

「音楽の病」は2部構成。
第1部はクラッシク、第2部はポップスというお馴染みの形。
第2部の指揮を私が務めました。

小なりとは言え、何せ5つも楽団が集まっています。
人数もさることながら、タレントが豊富。
急・緩・急で構成した6曲を、
司会なしの音楽のみで押しまくるというプログラムを組んだのでした。

その取りが『ローマの松』から ” アッピア街道の松 “。
金管楽器奏者が沢山いてるんやから、
バンダ(別働隊)を客席の後ろに配置。
ドラムを叩くことが出来る人が3人もいるんやから、
舞台の下手、上手、そして雛壇の上に配置。
バンダとトリプル・ドラムで圧倒的な音響空間を作ろうとしたのでした。
(ポップスでもなく、ドラムの入る楽曲でもないのに!)

演奏後、割れんばかりの拍手が鳴り響き、
緞帳を降ろしてもカーテンコールが鳴りやまないという、
凄いことになったのでした。

予定していなかったアンコールを急きょやることになり、
” アッピア街道 ” の途中からもう一度やることにしました。
そんな大わらわの舞台裏を取り仕切ってくれたのが K さん。
あの時はホントに苦労をお掛けしました。
会館の皆さんも、
急なお願いを聞いてくださって、
本当にありがとうございました。

一度降ろした緞帳を再び上げてもらう経験、
後にも先にもこの一度だけです。