2010年11月
ウェザード2010年11月26日
11/19(金)は仕事の都合で練習に参加できませんでした。
フィリップ・スパークの交響曲第1番「大地、水、太陽、風」
の第1回合奏日であったにもかかわらず、
参加できず申し訳ありません。
しかし、この曲を熱い想いで選曲したコンサート実行委員長であり、
テューバ奏者であり、
さらには副指揮者である近藤君が指揮してくれました。
きっと熱い想いで。
どんな合奏だったのでしょうか。
さて、ある雑誌を読んでいて、「ウェザード」という言葉を見つけました。
「weathered」と綴ります。
“風雨にさらされて変色した”という意味の形容詞なんだそうです。
私の頭髪は正しくウェザードなんであります…
ってなことは置いといて…
いい言葉だなぁ、と思います。
せせらぎもウェザードだなぁ、と思うことがよくあります。
若い楽員の皆さんには失礼かもしれませんが、
振っていて、
時にこのウィンド・オーケストラが醸し出す、
何とも言えない醸成度を感じることがあります。
音に年季を感じる、と言ったほうがいいでしょうか。
見事な琥珀色をたたえるウィスキーの如き味わいです。
ぽっと出の1年生や2年生には出せない味わいです。
これは、上手下手という感覚では測れないものです。
大切にしたいな、と思いましてな。
配置替え2010年11月21日
2010年11月14日、日曜日。
今年のF1サーカスは、
最終戦アブダビGPで優勝したセバスチェン・ベッテルが
史上最年少でワールドチャンピオンに輝くという劇的な幕切れであった。
その同じ11月14日、
私たちはバンビオ・メインホールを借りて日曜合奏を行いました。
次の金曜日からフィリップ・スパークの『交響曲第1番』に取り組み始めるのに先立ち、
これまで練習してきた5曲の総ざらいをしようと目論みました。
5曲目はさっと1回やって時間切れとなってしまいましたが、
それ以外はかなりじっくりと取り組めたと思います。
プレイヤーの皆さん、お疲れ様でした。
そして、広い会場なので、配置替えを試しました。
いつものようにB♭クラリネット群が最前列で弧を成す配置で練習した後、
B♭クラリネットのうちファースト奏者だけが最前列に残り、
フルート、オーボエが最前列に座る配置にしたのです。
もともとフルート、オーボエが座っておられた位置に、
B♭クラリネットのセカンド・サード奏者の皆さんに座ってもらいました。
金管では、ホルンの皆さんに、
トランペットの前列という位置から、下手寄りに移ってもらいました。
大体サードB♭クラリネットの後ろ辺りで、
ホルンのベル(朝顔)が割とダイレクトに客席に向かうという配置です。
意図するところは、
木管楽器全体をクラリネット属で包み込み、
木管楽器を金管楽器で包み込み、
木管・金管を打楽器で包み込むようにすることです。
私の経験上、好きな配置です。
この日の出席状態では歯抜けなパートがあったものの、
各パートの音がこれまでよりも透けて聴こえてくるという
演奏上の効果を実感しました。
(これは指揮者として感じたものです。
奏者としてはいかがだったでしょうか?)
実は、それ以上に、意図していなかった練習上の効果が現れました。
それは、各パートの音がより鮮明になったことにより、
音のズレも顕著になったことです。
磨くべき目標が明確になってよかったと思います。
やっぱり私たちが日々ブラッシュアップしていくものは、
音そのものなんだな、と思いました。
皆さん、「前向キング」でやっていきましょう!
時に西暦1993年10月23日、土曜日。
自身4度目となる鈴鹿来訪で、初めてF1公式予選の観戦である。
パーカッションの笠原勝己君とともに訪れた。
時代は進み、自由席というものはなくなったか、極少に減ったか。
いずれにせよ、念願の第2コーナーのスタンドで、
上の方の席(見晴しがよい)をゲットしていた。
慌てることなくサーキット入りである。
前年をもってエンジン・サプライヤーのホンダが撤退していたマクラーレンは、
ハイテクで先行するウィリアムズに水を開けられていた。
そのウィリアムズに乗るアラン・プロストが、
前戦ポルトガルGPでワールドチャンピオンを決めていた。
ランキング2位も、ウィリアムズのデーモン・ヒル。
マクラーレンのアイルトン・セナは、それに次ぐ3位だった。
ちなみに、後に7度ものワールドチャンピオンに輝いて「皇帝」と称されるようになる
若き日のミハエル・シューマッハがランキング4位につけている。
日本GP予選は、プロスト1位、セナ2位。
シューマッハの順位は覚えていないが、セナに次ぐ人気で、
もの凄い声援が送られていた。
5年前はセナ一色だった印象が強い。
確実に時代は動いている。
翌10月24日、日曜日。
F1日本GP、決勝。
ばっちり指定席が取れているので、土曜日にちゃんと帰宅しており、
日曜日も余裕を持って出発である。
予選2位のセナが、スタートを決めてトップに立った。
しかし、マシン性能からいって、いずれトップを譲ることになりそうな気配。
そんなレース中盤、にわかに雨が降り出した。
「やった!」と思った。
ビショ濡れになりながらも、
「もっと降れ、もっと降れ!」と念じた。
路面が濡れた状態でのセナのドライビングはピカイチだからである。
そのままトップチェッカー!
セナ、F1通算40勝目、鈴鹿での2勝目。
私が鈴鹿へ行くとセナが勝つ。
素晴らしいではないか!
1994年以降も鈴鹿での日本GPに通い続けようと決心したのだった。
(11月7日のオーストラリアGPでもセナは連勝、
F1通算41勝目を挙げた。
そして、これがキャリア最後の勝利だったのである)
1994年5月1日。
F1第3戦サンマリノGP。
フジテレビのF1中継がセナの事故死を伝えた。
(先日鑑賞したドキュメンタリー映画『アイルトン・セナ 音速の彼方へ』でも、
涙ながらにセナの死を伝えるフジテレビのアナウンサー・解説者の映像を
かなりの長尺で引用していた)
あまりの衝撃に、それから数カ月、私の魂もどこかへ行ってしまったようだった。
以来、鈴鹿サーキットを訪れていない。
しかし、2010年10月10日、日曜日。
高いマシン性能とドライバーの腕が噛み合ないと追い越しが非常に困難と言われる鈴鹿で、
小林可夢偉は5台もオーバーテイクしまくったのである。
これは世界的に見ても、もんのすんごいことなのだ。
若き日のセナもシューマッハも、
戦闘力の低いマシンで素晴らしいパフォーマンスを披露し、
キャリアを積んでトップ・チームへの移籍を果たし、
ワールドチャンピオンに登り詰めていったのだ。
近い将来、小林可夢偉がフェラーリをドライブし、
鈴鹿で優勝!
ワールドチャンピオン獲得!
なんて日が来るかもしれない。
なんだか久しぶりに燃えてきた。
セナの遺志を継ぐ者たちのレースを、
久しぶりにこの目で観てみたくなってきた。
時に西暦1988年10月30日、日曜日、午前0時。
トランペットの中川俊明さんとともに、鈴鹿へ出発した。
鈴鹿峠を越える際の気温が摂氏2度だった。
午前2時、鈴鹿到着。
サーキットからかなり離れた駐車場に誘導された。
サーキットの正門まで、駐車場からは徒歩である。
午前4時、開門。
当時、ほとんどが自由席である。
(小林可夢偉の5台オーバーテイクで有名になったヘアピンも、
第1、第2コーナーも、この年は自由席)
多くのファンが、それぞれのベスト・スポットを目指して走る。
もちろん我々も走った。
車で走ればあっという間のサーキットも、人の足だとかなりの距離。
しかも、ほとんど真っ暗闇だと言っていい。
第1、第2コーナーを目指したつもりが、
到着したのはバック・ストレートだった。
走り疲れてヘトヘト、しかも汗びっしょりである。
もはや違う場所へ行く気力も体力もなく、その場で寝転がっての仮眠となった。
ものすごい冷え込みだった。
寝袋も用意しておらず、未だ革ジャンも所有しておらず、風通しがすこぶる良い。
私は今もって、この時以上の寒さというのを経験したことがない。
ちなみに、重武装して眠った中川さんは、
横で眠る私が二度と目を覚まさないかもしれないとヒヤヒヤしたそうだ。
幸い凍死はしなかったが、あまりの寒さに、目覚めてから缶コーヒーを15本も飲んだ。
午後1時、待ちに待った決勝レース、スタート。
ポールポジション(予選第1位)を獲得したアイルトン・セナ。
このレースに勝てば、念願のワールドチャンピオン(年間総合優勝)獲得である。
そのプレッシャーもあったのだろうか、スタートをミス。
いきなり中段グループまで沈む。
が、そこから怒濤の追い上げを見せ、
28周目にトップ走行中のアラン・プロストを正面ストレート前でオーバーテイク!
我々も、その数秒後のバック・ストレートで黄色のヘルメットのセナが前になったのを目撃。
腹の底から大声援を送った。
小雨の中、セナはそのままトップ・チェッカーを受け、
鈴鹿(日本グランプリ)初勝利、
そして自身初のワールドチャンピオンに輝いた。
ホンダ・エンジンを搭載したマクラーレンMP4/4を駆るアイルトン・セナの優勝。
涙のウィニング・ランに、僕らも涙ながらに手を振った。
最高のグランプリ観戦だった。
アイルトン・セナは、その後、1990年、1991年と、
3度のワールドチャンピオンに輝いた。
が、鈴鹿では勝っていない。
(トップでチェッカー・フラッグを受けたものの、
その後の裁定で失格処分となった悲しいレースもあった)
セナの次の鈴鹿での勝利は、1993年の日本グランプリである。
それは私にとって4度目の鈴鹿来訪の時だった。