鈴鹿、そして、セナ ~その3~2010年11月14日
時に西暦1993年10月23日、土曜日。
自身4度目となる鈴鹿来訪で、初めてF1公式予選の観戦である。
パーカッションの笠原勝己君とともに訪れた。
時代は進み、自由席というものはなくなったか、極少に減ったか。
いずれにせよ、念願の第2コーナーのスタンドで、
上の方の席(見晴しがよい)をゲットしていた。
慌てることなくサーキット入りである。
前年をもってエンジン・サプライヤーのホンダが撤退していたマクラーレンは、
ハイテクで先行するウィリアムズに水を開けられていた。
そのウィリアムズに乗るアラン・プロストが、
前戦ポルトガルGPでワールドチャンピオンを決めていた。
ランキング2位も、ウィリアムズのデーモン・ヒル。
マクラーレンのアイルトン・セナは、それに次ぐ3位だった。
ちなみに、後に7度ものワールドチャンピオンに輝いて「皇帝」と称されるようになる
若き日のミハエル・シューマッハがランキング4位につけている。
日本GP予選は、プロスト1位、セナ2位。
シューマッハの順位は覚えていないが、セナに次ぐ人気で、
もの凄い声援が送られていた。
5年前はセナ一色だった印象が強い。
確実に時代は動いている。
翌10月24日、日曜日。
F1日本GP、決勝。
ばっちり指定席が取れているので、土曜日にちゃんと帰宅しており、
日曜日も余裕を持って出発である。
予選2位のセナが、スタートを決めてトップに立った。
しかし、マシン性能からいって、いずれトップを譲ることになりそうな気配。
そんなレース中盤、にわかに雨が降り出した。
「やった!」と思った。
ビショ濡れになりながらも、
「もっと降れ、もっと降れ!」と念じた。
路面が濡れた状態でのセナのドライビングはピカイチだからである。
そのままトップチェッカー!
セナ、F1通算40勝目、鈴鹿での2勝目。
私が鈴鹿へ行くとセナが勝つ。
素晴らしいではないか!
1994年以降も鈴鹿での日本GPに通い続けようと決心したのだった。
(11月7日のオーストラリアGPでもセナは連勝、
F1通算41勝目を挙げた。
そして、これがキャリア最後の勝利だったのである)
1994年5月1日。
F1第3戦サンマリノGP。
フジテレビのF1中継がセナの事故死を伝えた。
(先日鑑賞したドキュメンタリー映画『アイルトン・セナ 音速の彼方へ』でも、
涙ながらにセナの死を伝えるフジテレビのアナウンサー・解説者の映像を
かなりの長尺で引用していた)
あまりの衝撃に、それから数カ月、私の魂もどこかへ行ってしまったようだった。
以来、鈴鹿サーキットを訪れていない。
しかし、2010年10月10日、日曜日。
高いマシン性能とドライバーの腕が噛み合ないと追い越しが非常に困難と言われる鈴鹿で、
小林可夢偉は5台もオーバーテイクしまくったのである。
これは世界的に見ても、もんのすんごいことなのだ。
若き日のセナもシューマッハも、
戦闘力の低いマシンで素晴らしいパフォーマンスを披露し、
キャリアを積んでトップ・チームへの移籍を果たし、
ワールドチャンピオンに登り詰めていったのだ。
近い将来、小林可夢偉がフェラーリをドライブし、
鈴鹿で優勝!
ワールドチャンピオン獲得!
なんて日が来るかもしれない。
なんだか久しぶりに燃えてきた。
セナの遺志を継ぐ者たちのレースを、
久しぶりにこの目で観てみたくなってきた。