みちのく一人旅~その4~2011年11月28日

11月10日(木)続き

もし次に来ることがあるなら、まず山登り専門店で準備を整えてからにしよう。
せめて熊除けの鈴ぐらい持っとかんといかんな…

さてさて、毛越寺(もうつうじ)に到着。
創建当時の建物は失われていますが、浄土庭園の美しさは目を瞠るばかりです。
池の青、草地の黄緑色、木々の緑、そして紅葉。
これらのコントラストが特に美しく、
写真をバシャバシャ撮ってしまいました。

毛越寺 浄土庭園

毛越寺の東隣が、旧観自在王院庭園(きゅうかんじざいおういんていえん)。
こちらも建物はありませんが、史跡公園としてきれいに整備されています。
京都・木津川市の浄瑠璃寺で予習してきた甲斐がありました。
(池の形がなぜかそっくりなのです)

ここに「オンドウ仏」という石仏があります。
風化が激しいのですが、3年前に発行された岩手日報社のガイドブックでは、
ちゃんとした、と言ったら変な言い方ですが、
普通の仏像の姿をしていらっしゃったのです。

が、私が見たのは、頭が落ちた姿でした。
頭は坐像の横に置いてありました。
きっと、東日本大震災で首が取れたのだろうと思います。
心が痛みました。

※※※

中尊寺だけで長文になってしまったので2回に分けた11月10日。
少し日が傾いてまいりました。
思えば、前日の午後から平泉に滞在したわけで、
探訪だけ抜き出しても優に9時間はかかっています。
いわゆる旅行ガイドには、
「平泉をじっくり見て回って、約3時間」って書いてあったのに…

それでも名残惜しい平泉。
いつかまた訪れたいと思いつつ、次の目的地に向かいます。

平泉14:46発・普通盛岡行きで水沢へ(15:09着)。
ここでタクシーに乗り、
「すみません、豊田館跡(とよだのたちあと)と、
鳥海柵跡(とりみ(または「とのみ」)のさくあと)に連れて行ってください。」
ここでも運転手さんにキョトンとされてしまいました。
私が行こうとするところ、そんなにマイナーなんでしょうか。
ちょこっとだけ滅入ってしまいましたが、
気を取り直して用意してきた地図を見てもらいます。
地図さえ見せれば、さすが地元のドライバーさん、
スイスイッと連れて行ってくれました。

豊田館とは、前九年合戦の時代、
藤原経清(つねきよ)と、
その妻で、安倍頼時(よりとき)の娘である結有(ゆう)が暮らし、
二人の息子で、のちに奥州藤原氏初代となる藤原清衡(きよひら)が生まれ育った城館だと伝わります。

また、後三年合戦では、
清衡の弟、家衡(いえひら)が攻め寄せ、清衡の妻子が殺された場所です。

後三年合戦の勝者となった清衡は、平泉進出までの数年間、
ここに城館を再建し奥州を治めたそうです。

豊田館跡

今では、こじんまりした史跡公園となっています。
遺構などは未確認らしいのですが、きっと、ここです。
そう信じて、空気をいっぱい吸い込みました。

次に連れて行ってもらった鳥海柵は、
安倍頼時の息子の一人、安倍宗任(むねとう)の城柵であったところ。
安倍頼時は、前九年合戦の最中、
ここ鳥海柵で亡くなったそうです。

鳥海柵跡

今ではすぐ横を東北自動車道が通っています。
車が高速で駆け抜けていく、ある意味ダイナミックな地です。
深い堀の跡が残っていて、堅牢な守りであったことがうかがえます。
うっかり足を踏み外したら、タクシーの運転手さん、助けてくれるだろうか…
ふと、そんなことを思う浮かべたら、
もう見学は十分だ、帰ろう、となりました。

豊田館も鳥海柵も、またまた見事に私一人。
ただし、どちらも駐車できるスペースと遺跡がそんなに離れていないので、
何かあっても見つけてもらえる場所でしたが。

さて、この運転手さん、10年前まで確か神奈川に住んでいたとおっしゃっていました。
親御さんが定年退職で郷里の岩手に戻ることになった時、
一緒に移り住み、タクシーの運転手になったそうです。
なので、有名な観光地ではない場所、分からなくて当然です。
(私が行きたい場所にスッと連れて行ってくれるドライバーさんがいるのか、
それでも不安ですが…)

この運転手さんに、
「どうぞいい旅をお続けください。
そして、東北のことを忘れないでください。
できれば、また訪ねてください。」
と、大変温かい言葉をかけていただきました。

ご心配なく、ぜったい忘れませんよ。