2011年11月
11月11日(金) 天気:霧→晴れ→曇り→雨 歩数:9079
すごい霧。一面、真っ白。
北上川流域の冬の朝としては、ごく普通のことだそうです。
そんな霧の朝に向かったのは、珍しく、史跡ではありません。
歴史テーマパーク「えさし藤原の郷(さと)」です。
前九年合戦・後三年合戦・奥州藤原氏の興亡をテーマにしています。
大河ドラマや映画のロケにもよく使われています。
よく、「協力:奥州市(以前は江刺市)」というクレジットを見ませんかな?
ほぼ間違いなく、ここでロケが行われたということです。
京都で言えば「東映太秦映画村」に似ているかもしれません。
できたのは、1993年。
大河ドラマ『炎立つ(ほむらたつ)』も1993年。
テーマパークに合わせてドラマができたのか、
ドラマに合わせてテーマパークが作られたのか、
その辺のことはよく知りません。
ただ、一番最初にロケでここを使ったのが『炎立つ』なのは確かです。
笑えるのは、フジテレビ『逃走中』でもよく使われていることです。
園内に、その案内板がたくさんありました。
まぁ、確かに隠れる場所、いっぱいあるけど…
とにかく、私が訪れた日にロケがなくて一安心です。
到着してまずはじめにしたのは、
大きなリュックサックからデイパックに最低限の荷物を移す作業。
手頃なベンチがあったので、気にせずベタッと座って。
作業が終わって立ち上がると、何やらお尻が冷たい…
ベンチが濡れていたのでした。
そう、この時点では霧は晴れ、日が射しているものの、
朝から霧が立ち込めていたのでした。
ついでに言うと、霜も降りていました。
前日とはうって変わった寒さ。
最小限に絞り込んで持ってきた着替えの中から、この日の朝、
冬仕様のズボン下(ユニクロのヒートテック)に履き替えたばかりだったのです。
「着替えた途端に汚したり濡らしたりする」
旅のジンクスは生きています。とほほ…
「政庁」を再現した朱塗りの建物で、
着物ではないけれども、何となく平安時代っぽい装束を着た、
女性スタッフに呼び止められます。
(眼鏡は仕方ないにしても、足元がスニーカーなのはどうしたものか…)

「朝一で来てくださったんですか!ありがとうございます!」
とてもハキハキして、気持ちよい応対です。
そういえば、私の朝は早い。
宿に着いて、まずお風呂をいただき、18時に夕食(もちろん、呑む)。
もう一度お風呂に入って、歯を磨いたら、21時には意識朦朧。
灯りを消してお布団に潜って、気が付いたら朝の3時とか4時とか。
朝風呂に入ってから二度寝したら、もう朝食の7時。
そりぁ、どこ行っても朝一です。
「この政庁には、歴史がよく分かるパネルが展示してありますよ。
じっくりご覧ください。」と、先程の女性スタッフ。
はい、ありがとね。ほんじゃ、ゆっくり観させてもらいますわ。
って行ったっきり、おそらく15分~20分、じっくり読んでたものだから、
女性スタッフ、手持ち無沙汰だったんでしょうね。
携帯でメールを読んではりました。
(他にお客さんもいないしねぇ)
慌てて携帯をしまう女性スタッフ、
「今日はお時間ありますか?
じっくり体験コースだと、2時間くらい、
お急ぎコースだと、40分くらい。
どちらになさいます?」
そらまぁ、せっかく来たんだから、じっくり行きますわいな。
ってことでじっくり体験コースを歩き出すんですが、
お急ぎコースに合流するまでの約2時間、
全く誰にも会いませんでした。
またもや一人っきりです。
「経清(つねきよ)館」と名づけられた、
「豊田館(とよだのたち)」を再現した建物の一部は、
東日本大震災のために損壊しており、工事中でした。
2日前に訪れた「河崎柵」や、
翌日盛岡で訪れる予定の「厨川柵(くりやがわのさく)」が再現されていて、
とても興味深く見学いたしました。

が、覆堂なしで再現された「金色堂」、そして「無量光院」。
これらはおもちゃでしたな。
ところで、「アラハバキ」が再現されているところがありましたが、
この「アラハバキ」って、一体何なんでしょう?
私なりに勉強して行ったのですが、
実は今もってよく分からないのです。

高橋克彦さんの『炎立つ』では、
安倍氏や奥州藤原氏を陰で支えた物部氏が信仰したのが「アラハバキ」の神。
古代東北の民俗信仰のようなのですが、
やっぱりよく分からない。
ここ「えさし藤原の郷」では、
秋田県鹿角(かづの)市にある「大湯環状列石」をモデルに、
信仰の対象であった神の宿る「石」を再現しています。
再現しただけの「石」であるにもかかわらず、
夥しい数のお賽銭が置かれていました。
中には石の割れ目に押し込まれた賽銭も…
園内の一番奥であることもあり、森閑とし、
とても厳かな雰囲気が漂っていました。
本当に再現しただけの「石」なのでしょうか?
実は、密かに物部氏の子孫が建てたものだとか?
作った後、本当に霊が宿ったりしたとか?
※※※
さて、12月10日公開の映画『源氏物語-千年の謎-』のロケ、
やっぱりここで行われました。
生田斗真君(光源氏)が朱塗りの御殿の前で舞うCMをよく見ますが、
あれはきっと「政庁」でロケされたのだと思います。
勤務先に派遣社員としてきてくれているとある女性が、
生田斗真君の大ファンで、
ロケ地に行ってきた話をすると、
えらく喜んでいました、最初は。
でも、彼女自身が行った訳ではないのです、
私がこのネタをしつこくするもんだから、
最近、何だか冷たいような…
11月10日(木)続き
もし次に来ることがあるなら、まず山登り専門店で準備を整えてからにしよう。
せめて熊除けの鈴ぐらい持っとかんといかんな…
さてさて、毛越寺(もうつうじ)に到着。
創建当時の建物は失われていますが、浄土庭園の美しさは目を瞠るばかりです。
池の青、草地の黄緑色、木々の緑、そして紅葉。
これらのコントラストが特に美しく、
写真をバシャバシャ撮ってしまいました。

毛越寺の東隣が、旧観自在王院庭園(きゅうかんじざいおういんていえん)。
こちらも建物はありませんが、史跡公園としてきれいに整備されています。
京都・木津川市の浄瑠璃寺で予習してきた甲斐がありました。
(池の形がなぜかそっくりなのです)
ここに「オンドウ仏」という石仏があります。
風化が激しいのですが、3年前に発行された岩手日報社のガイドブックでは、
ちゃんとした、と言ったら変な言い方ですが、
普通の仏像の姿をしていらっしゃったのです。
が、私が見たのは、頭が落ちた姿でした。
頭は坐像の横に置いてありました。
きっと、東日本大震災で首が取れたのだろうと思います。
心が痛みました。
※※※
中尊寺だけで長文になってしまったので2回に分けた11月10日。
少し日が傾いてまいりました。
思えば、前日の午後から平泉に滞在したわけで、
探訪だけ抜き出しても優に9時間はかかっています。
いわゆる旅行ガイドには、
「平泉をじっくり見て回って、約3時間」って書いてあったのに…
それでも名残惜しい平泉。
いつかまた訪れたいと思いつつ、次の目的地に向かいます。
平泉14:46発・普通盛岡行きで水沢へ(15:09着)。
ここでタクシーに乗り、
「すみません、豊田館跡(とよだのたちあと)と、
鳥海柵跡(とりみ(または「とのみ」)のさくあと)に連れて行ってください。」
ここでも運転手さんにキョトンとされてしまいました。
私が行こうとするところ、そんなにマイナーなんでしょうか。
ちょこっとだけ滅入ってしまいましたが、
気を取り直して用意してきた地図を見てもらいます。
地図さえ見せれば、さすが地元のドライバーさん、
スイスイッと連れて行ってくれました。
豊田館とは、前九年合戦の時代、
藤原経清(つねきよ)と、
その妻で、安倍頼時(よりとき)の娘である結有(ゆう)が暮らし、
二人の息子で、のちに奥州藤原氏初代となる藤原清衡(きよひら)が生まれ育った城館だと伝わります。
また、後三年合戦では、
清衡の弟、家衡(いえひら)が攻め寄せ、清衡の妻子が殺された場所です。
後三年合戦の勝者となった清衡は、平泉進出までの数年間、
ここに城館を再建し奥州を治めたそうです。

今では、こじんまりした史跡公園となっています。
遺構などは未確認らしいのですが、きっと、ここです。
そう信じて、空気をいっぱい吸い込みました。
次に連れて行ってもらった鳥海柵は、
安倍頼時の息子の一人、安倍宗任(むねとう)の城柵であったところ。
安倍頼時は、前九年合戦の最中、
ここ鳥海柵で亡くなったそうです。

今ではすぐ横を東北自動車道が通っています。
車が高速で駆け抜けていく、ある意味ダイナミックな地です。
深い堀の跡が残っていて、堅牢な守りであったことがうかがえます。
うっかり足を踏み外したら、タクシーの運転手さん、助けてくれるだろうか…
ふと、そんなことを思う浮かべたら、
もう見学は十分だ、帰ろう、となりました。
豊田館も鳥海柵も、またまた見事に私一人。
ただし、どちらも駐車できるスペースと遺跡がそんなに離れていないので、
何かあっても見つけてもらえる場所でしたが。
さて、この運転手さん、10年前まで確か神奈川に住んでいたとおっしゃっていました。
親御さんが定年退職で郷里の岩手に戻ることになった時、
一緒に移り住み、タクシーの運転手になったそうです。
なので、有名な観光地ではない場所、分からなくて当然です。
(私が行きたい場所にスッと連れて行ってくれるドライバーさんがいるのか、
それでも不安ですが…)
この運転手さんに、
「どうぞいい旅をお続けください。
そして、東北のことを忘れないでください。
できれば、また訪ねてください。」
と、大変温かい言葉をかけていただきました。
ご心配なく、ぜったい忘れませんよ。
11月10日(木) 天気:晴れ 歩数:17097
前夜の宿泊は、奥州平泉温泉・そば庵しづか亭。
平泉駅から車で10分ほど西に行ったところ、
山里の中にポツンとある一軒宿です。
「そば庵」と謳っているだけあり、打ちたての新そばをいただきましたが、
これがすこぶる美味でありました。
1日3食、1週間続けてそばでも構わないとくらいそば好きの私ですが、
「わんこそば」が有名な岩手で食べた、これが唯一のそばでした。
なぜでしょう?
さて、朝の9時、この日の行動開始です。
宿のワゴンで平泉駅まで送ってくれます。
運転手のおばちゃんに、
「今日はどこに行く予定ですか?」
と尋ねられました。
「中尊寺に登って、それからウォーキングトレイルで山から下りて、
ちょうど下りたところに毛越寺(もうつうじ)があって、
その隣に旧観自在王院庭園(きゅうかんじざいおういんていえん)があるので、
それだけまわったら平泉駅からJRに乗ります。
今日は水沢に泊まります。」
と応えました。
すると、
「えっ、ウォーキングトレイルを歩くんですか!?
あそこは熊が出るかもしれませんよ。
まっ、熊のほうも怖がって出てこないでしょうけど。
はっはっはっ!」
おいおい、おどかすなよ…
前方に、平泉の町並みが見えてきます。
北上川には川霧がかかっています。
その向こうにそびえる青空をバックにした束稲山(たばしねやま)が聳える、
何とも気持ちのいい朝。
それでは登山開始です。
中尊寺の表参道を、月見坂といいます。
いきなり急な上り坂ですが、しばらくするとなだらかな坂に変わります。
杉並木の気持ちいい参道にあるお堂を、一つ一つ丹念に参っていきます。
中尊寺参拝ももちろん重要なのですが、
私にはもう一つ重要な目的がありました。
それは、中尊寺の北を流れる衣川(ころもがわ)を観ることです。
中尊寺は、関山(かんざん)という山にあります。
現地に来て実感したことですが、
関山と束稲山に囲まれた狭い
平野部の真ん中に北上川が流れる。
平泉はそんな地勢です。
京都と大阪の境を成す大山崎も、
二日前に訪れた阿津賀志山(あつかしやま)も、
ここ平泉も、
要害の地であることがよく分かります。
関山の北を流れる衣川は
前九年合戦の舞台となったところであり、
衣川の北側は、奥州藤原氏の前身である安倍氏の本拠地なのです。
衣川の北側まで歩き回るのは時間的にも難しかったので、
せめて中尊寺から観させてもらうことにしたのでした。
いよいよ金色堂に到着です。
一体どこからこれだけの人が湧いてきたのかと思うほど、観光客でいっぱいです。
世界遺産、恐るべし!
なんか久しぶりに、大阪の梅田に来たのかと思うほどでした。
団体の隙間をついて、金色堂にお参りしました。

それはそれは、金色です(当たり前か!)
いや、その、歴史書や旅行ガイドにいろいろな表現で書いてありましたが、
私としては、正直、言葉を失う美しさに圧倒されました。
藤原清衡(きよひら)の恒久平和への祈りが込められているのですね、きっと。
金色堂の隣に、讃衡蔵(さんこうぞう)という宝物館があります。
殆んどが国宝クラスという、物凄いところです。
その中に、「中尊寺建立供養願文(がんもん)」というのがあります。
原本は失われ、南北朝時代に写されたものが展示されています。
だからでしょうか、これは国宝ではなく、重要文化財です。
1126年、中尊寺の落慶法要の際に藤原清衡が読み上げたもので、
人間だけでなく戦で死んだあらゆる生き物の霊を弔い、
奥州の平和を祈ったこの願文には、
藤原清衡の悲願が込められています。
歴史書の中で何度も何度も読み返してきました。
そんなことを思っていると、不意に体中が熱くなり、
思わず知らず、ポロポロと涙を零してしまいました。
※※※
さて、心を鎮めてウォーキングトレイルで毛越寺に向かいましょう。
それにしても、私しかいません。
観光客の皆さん、やっぱり表参道の月見坂を下りるのでしょうか?
で、入り口に立つと、「熊出没注意」と書いてあるではありませんか!
いや、大丈夫、とにかく歩くぞ、
と自分に言い聞かせて2~3分歩いてみたのですが、
だんだん怖くなってきました。
人のいないところばっかり巡っている旅ですが、
ここで誰もいないのは、本当にやめてって。
…スゴスゴともと来た道を引き返し、関山を下りるのでありました…
11月9日(水) 天気:晴れ→時雨→晴れ 歩数:17622
福島の飯坂温泉「なかむらや」さんは、本当に温かいお宿でした。
「ひと」が温かいのですね。
そして、自家製の豆腐とラジウム玉子がすごく旨かった!
でも、震災当初の話をお聞きすると、やはり心が痛みました。
「温泉」以外のライフラインがすべてストップしたそうです。
電気が復旧したのが、約10日後。
このときに始めて津波のことを知ったそうです。
温泉街を歩いていると、廃業したと思われる宿も見掛けました。
飯坂温泉の近くには、
源義経に付き従った佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの医王寺(いおうじ)もあるのですが、
ここの探訪はまたの機会といたしましょう。
さて、この日は飯坂温泉駅を8:30に発車、
福島交通飯坂線で福島駅到着が8:54。
福島9:20発やまびこ125号で仙台着が9:41、
仙台9:43発はやて103号で一ノ関着10:22。
前日は駅にいなかったタクシーですが、
一ノ関駅は大丈夫でした。
何せ新幹線の停まる駅ですから。
運転手さんに頼みます、
「河崎柵跡(かわさきのさくのあと)と、
黄海古戦場跡(きのみのこせんじょうあと)に行ってください」と。
キョトン、とされてしまいました。
予測された事態であります。
用意してきた地図を見てもらいながら、連れて行ってもらいました。
ともに、前九年合戦中盤戦の重要な史跡です。
河崎柵を出陣した安倍軍が、源氏軍に大勝したのが黄海です。

最初、怪訝な表情で連れまわしてくれた運転手さんでしたが、
史跡の説明版を読むうち、
みちのくの歴史に興味を持ってわざわざ京都から来たことに、
大層感激してくれたのでした。
一ノ関駅に戻る車中、時雨に遭いました。
が、車から降りるときには、雨はすっかりあがっていました。
一ノ関12:23発、普通・盛岡行きで、平泉着が12:32。
いよいよ奥州藤原氏の本拠地にやってきました。
コインロッカーにリュックサックを放り込み、
予め用意しておいたデイパックに必要最小限の荷物を移し変え、
ここからは徒歩で探訪です。
とてもいい天気です。
が、翌日以降の天気を危ぶむ噂をあちこちで耳にします。
先程も時雨に遭ったばかりです。
この日のうちに、山の上にある中尊寺まで登るべきか、
それとも中尊寺は翌日に回し、
この日は平野部をウロウロするか、迷います。
冷静になって天気予報を調べたら、
気温は下がるものの、
翌日も晴天が続くと出ています。
よって、この日は平野部を探訪することにしました。
まずは駅から一番近い「伽羅御所跡(きゃらごしょあと)」に向かいます。
ここは説明版が立っているだけです。
誰もいません。
次に向かったのは「柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)」。
世界遺産からは外れたものの、
立派な史跡公園に整備されていました。
が、やっぱり誰もいません。

中国の史書に「柳営」という言葉が出てくるそうです。
これは「武人による政府」を表すらしく、
「柳之御所」とは、まさに「武士の政府」を意味するそうです。
イイクニつくろう鎌倉幕府よりも前に、
実質的に「平泉幕府」があったと考えてもいいように思います。
だから僕には面白くて、ここに1時間半もいました。
でも、万人受けはしないのでしょうね。
宇治の平等院鳳凰堂を模して造られ、
それよりも一回り大きかったといわれる「無量光院(むりょうこういん)」。
ここも遺跡ですが、世界遺産のひとつ。
すると、途端に訪れる人が多いんですね。
不思議なもんです。
発掘調査が行われていました。
どんな発見があるのか、興味津々です。
その他にも、「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」や、
武蔵坊弁慶の墓と伝えられる石碑などを見て回ったのですが、
少し日が傾いてきました。

【高館義経堂から束稲山(たばしねやま)・北上川を望む】
平泉駅に戻り、荷物をピックアップして、
次の目的地に向かうことにしました。
平泉から5~6キロ北に行った所にある、
「白鳥館遺跡(しらとりたていせき)」です。
ここは世界遺産から外された場所ですが、
北上川が大きく蛇行する地点に、
まるで半島のように突き出した地形を利用して作られた城の跡です。

【白鳥館遺跡から北上川を望む】
タクシーに連れて行ってもらい、小一時間待ってもらったでしょうか。
またもや誰もいない、藪の中の探訪、
いや、探検と言った方がよさそうです。
要害の地であることが、よく分かりました。
探検を終えて、ホッとして帽子を取ったら、何やらニュルッと…
鳥の糞にやられていました。
そんな訳で、手もニュルッと…
毎日、何らかのトラブルに見舞われつつ、旅は続きます。
11月8日(火) 天気:晴れ 歩数:18276
これまで、こんなに一所懸命準備したことがあっただろうか、
旅だけでなく、せせらぎコンサートでも…
だからでしょうか、出発前夜、ドキドキしてあまり眠れませんでした。
「みちのく一人旅」出発当日は、こうして寝不足で明けました。
ですが、ワクワクしています。
京都8:42発のぞみ218号、東京着は11:03。
乗り継ぎはやまびこ259号、東京11:40発、福島13:11着。
福島からは在来線で、4駅先の藤田駅に向かいます。
14:00に福島を発車の仙台行き、藤田着は14:17。
初日の探訪目的地は、阿津賀志山(あつかしやま)防塁です。
1189年、源頼朝の奥州侵略に備え、
藤原泰衡(やすひら)が築いた防塁が残っているのです。
その最寄り駅が藤田駅。
藤田駅からはタクシーで向かうつもりでした。
ここでトラブル発生。
駅前にタクシーがいないのです。
「えっ!」
事前の調査では、そんな小規模な駅とは思えなかったのです。
が、実際には「タクシー乗場」すらない。
駅長さん(と言っても他に駅員さんはいない)にタクシー会社の名刺をもらい、
電話でタクシーを呼び寄せようと試みましたが、
予約が入っていて回せるタクシーはないとのこと。
どないやねん!
初日から予定変更か?
まあ、一人旅だから、誰に気を遣うこともないのだけれど、
ここまで来たんだから、やっぱり行ってみたいよなぁ~…
ということで、徒歩で向かうことにしました。
片道約5キロ、往復10キロの行程です。
ここで頼りになったのが「マップル」です。
つまり、昭文社の、東北道路地図。
これを買って、会社の後輩に「みちのく一人旅」の予定を話したとき、
散々笑われたものです。
「だって先輩、車の運転、しはりませんやん。
そやのに、道路地図って…」
しかし、マップルは歩くのにだって役立つのであります。
事実、この地図のおかげで、
このあと全く迷わずに「阿津賀志山防塁」にたどり着いたのです。
約50分かかりました。
車がビュンビュン通り、歩道がない道でしたが、
何とか無事たどり着きました。

なんだか、どこかで見たことのある風景だな…
そう、大山崎によく似た地勢なのです。
天王山と男山に囲まれた狭い平地の真ん中を淀川が流れる、
あの大山崎です。
阿津賀志山とその向かいの山に囲まれた狭い平地に阿武隈川が流れるこの地は、
大山崎と同じく、
大軍が通過するにはここしかない、
という交通の要衝でした。
豊臣秀吉と明智光秀が戦った天王山の合戦はとても有名ですが、
ここ、阿津賀志山でも、
源氏の大軍と奥州藤原軍が激突したのでした。
源軍を防ごうとした防塁が残っていたのです。
すごく感慨深いです。
探訪を終え、藤田駅に戻り始めたのは、だいたい15:40。
西日が、山の端にかかりそうになっています。
そう、ここは東北の地なのでした。
日暮れが早い。
急ぎ足で戻りました。
藤田駅から福島駅に戻り、
福島交通飯坂(いいざか)線に乗り換え、
飯坂温泉に着いたのが18時頃。
既に真っ暗になっていました。
震災で壊れた部屋の工事もしておられましたが、
「なかむらや」さんが温かく迎えてくれました。
泊めてくれた部屋は、なんと10畳×3部屋=30畳!
さすがに30畳ぶち抜きは寒いので、
10畳の襖は閉めました。
それでも20畳占有、ええんかいな?
旅の準備2011年11月16日
7月3日、『第24回せせらぎコンサート』終了。
音楽面では9月に2つの演奏会を控え、
仕事上はアナログ放送終了と、その後片付けで大忙しの中、
東北地方探訪の旅の準備に取り掛かりました。
まずは高橋克彦さん著『炎立つ(ほむらたつ)』原作を読み直し、
探訪したいスポットをピックアップ。
これだけで9月半ばまでかかりました。
※※※
1051年、前九年合戦勃発(~1062年)。
日本史的に言えば、
陸奥(ざっくりいって岩手県)の豪族・安倍頼時(よりとき)の叛乱となるだろうが、
安倍氏からすれば、源頼義(よりよし)の奥州侵略戦争だった。
前九年合戦の最中(停戦中)、
源頼義の旗下にあった藤原経清(つねきよ)と、
安倍頼時の娘・結有(ゆう。小説上つけられた名前と思われる)が結婚。
二人の間に生まれたのが、のちの奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)である。
藤原経清は源頼義の真意を憎み、安倍軍に加わる。
これは源氏からすれば裏切り行為だった。
1062年、源軍は出羽(ざっくりいって秋田県)の清原氏の援軍により、
厨川(くりやがわ)柵の戦い(現・盛岡市)で安倍氏を滅ぼす。
捕えられた藤原経清は、敢えて刃こぼれさせた刀で斬首された。
源頼義は、思惑に反し朝廷に干されてしまう。
武士の台頭が恐れられたからだ。
陸奥と出羽は清原氏の支配となった。
結有は清原武貞と再婚させられる。
連れ子の藤原清衡は、敵の中で成長していくこととなる。
1083年、後三年合戦勃発(~1087年)。
ざっくりいうと、清原氏の内紛である。
この戦いの最中、清衡は妻子を殺される。
が、なんと源頼義の息子・義家(よしいえ)の協力を得、
清衡は最後まで生き残る。
源義家にも陸奥を我が物に、という野望があったはずだが、
父・頼義と同じく、朝廷から遠ざけられてしまう。
1087年、安倍氏と清原氏の遺産を受け継いだ藤原清衡が最後の勝者となった。
1189年の源頼朝の奥州侵略まで、
約100年に及ぶ平泉を中心とした楽土が形成される。
奥州藤原氏初代・藤原清衡が再興したのが中尊寺。
その落慶供養で、清衡は、
戦の犠牲となった人々を敵も味方もなく弔い、
さらには人間だけでなく、
戦の中で殺された鳥獣までも弔ったのである。
二代・藤原基衡(もとひら)の代表的建造物は毛越寺(もうつうじ)。
その妻は安倍頼時の孫で、観自在王院を開いた。
三代・藤原秀衡(ひでひら)は無量光院を立てた。
宇治の平等院鳳凰堂を模したといわれるが、
それよりも一回り大きかったらしい。
四代・泰衡(やすひら)のとき、源頼朝の侵略を受ける。
源氏にとり、奥州は宿怨の地なのだ。
阿津賀志山(あつかしやま。現・福島県国見町)で決戦するも敗退。
奥州藤原氏は滅亡する。
(以上、ざっくり、でございました)
※※※
平泉へ行くのは何の心配もありません。
世界遺産となった大観光地ですから、
迷わずにたどり着けるはずです。
問題は、今や史跡となっている場所。
一体どこなのか、特定する必要があります。
そのために関連史書7冊を約1か月で読破。
地図も4種類購入、
インターネットでも関連史料を調べ、
白地図に探訪スポットを書き込んでいきました。
時刻表を駆使し具体的な行動を固めていった結果、
『みちのく一人旅』の計画が出来上がりました。
仕事の調整、宿の予約もでき、
11月8日から11月14日までの6泊7日です。
せせらぎの練習も1回お休みさせていただきました。
乗車券は京都⇔十和田南(花輪線)の往復。
ポイント毎に途中下車を繰り返します。
では、旅立ちます。
勤続20年2011年11月15日
社会人となって、はや20年。
現在勤めている会社、よく辞めずに済んだものだと思います。
今日に至るまで、人事と喧嘩したこともあったし、
会社から処罰を食らったこともありました。
我が社には、勤続20年で、特別休暇5日取得というご褒美があります。
時短休日+公休日+特別休暇5日+時短休日+公休日=9連休!
ただし、当該年度中に消化しなければなりません。
先輩方のお話を聞いていると、
9連休もらえるものの、どう使ったらいいか分からん、
という方が多いようです。
中には、年度末にとりあえず取得したものの、
家でブラブラしていたという方も。
ワーカホリックが多いのでしょうか。
僕は、そんなん絶対嫌や、と思いました。
※※※
『冬のソナタ』のロケ地巡りに行く
韓流ドラマはまりまくりおばちゃんの気持ち、
実はよく分かります。
1993年のNHK大河ドラマ『炎立つ(ほむらたつ)』。
その歴史の舞台を訪ねてみたいとずっと思い続けてきました。
前九年合戦、後三年合戦、そして奥州藤原氏の興亡という、
東北地方を舞台にした140年に渡る壮大な物語です。
世界の渡辺謙主演の『炎立つ』、
歴代の大河ドラマの中で、私が最もはまったドラマでした。
お恥ずかしながら、私が『炎立つ』にはまったのには、
もうひとつ理由があります。
父から、「これは我が家のご先祖様の物語である」と教えられたことです。
家系図も何も残っておらず、
代々口承されてきたそうなのですが、
たどりたどると我が家のルーツは東北に行き着くのだそうです。
枝分かれした子孫が最も多いのが藤原氏だそうです。。
可能性がゼロ、ではないでしょう。
とはいうものの、口承だけで証拠となるものがない。
『炎立つ』放映中、父は癌を患っていることが判明し、程なく他界。
確かめる術がないのですが、
何か運命的なものを感じ、
私は父の言葉を信じることにしました。
ただし、きっと直系ではなく、
遠い遠い親戚や、家来の一人だったと思うんですが…
映画風に言うと「構想18年」の東北地方探訪の旅。
勤続20年特別休暇を利用して実行しようと決意したのが、
去年の終わりか今年の初め頃だったと思います。
※※※
3月11日、東日本大震災発災。
私は体の一部を持っていかれたような痛みを感じました。
この稿も約一ヶ月書くことができなくなりました。
当初、東北地方探訪の旅などもってのほか、と考えていました。
が、2ヶ月、3ヶ月と経つうちに、是非の程は分かりませんが、
今こそ訪ねるべきなのではないかと思えてきました。
7月の『せせらぎコンサート』終了後、
いよいよ本格的な準備に入ります。
一度、酒を酌み交わしてみたい男がいる。
福岡ソフトバンク・ホークスの杉内俊哉投手(31)だ。
熱い男だ。
かつて、自身のふがいないピッチングに腹を立て、
利き手である左の拳でベンチだったか壁だったかをぶん殴り、
シーズンを棒に振ってしまったこともある。
しかし、そのピッチング・スタイルは、
「剛球でねじふせる」といったものではなく、
むしろ「飄々とした」と形容するほうが近い。
140Kmそこそこのストレートなのに、
打たれないのだ。
美しいフォームから投じられるストレートの軌道、
これまた実に美しい。
そういえば、第2回WBCでは中継ぎを担当していたが、
1点も取られなかった。
ソフトバンクvs埼玉西武のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第3戦。
ソフトバンク先発・杉内、西武先発・涌井。
見ごたえあるエース同士の投手戦に釘付けになってしまった。
序盤、ソフトバンクは全くヒットを打つことができない。
対する西武は杉内からチャンスをつくるが、
ソフトバンクの守備陣に阻まれ、得点することができない。
中盤から終盤は一転、ソフトバンクは涌井を攻める。
が、あと1本が出ない。
杉内は尻上がりに調子を上げ、
西武の打者を一人も出塁させない。
0対0のまま延長戦に突入。
えてして、こんな時はたった1本のホームランで試合が決まったりするものである。
そんな嫌な予感が頭をかすめた直後だった。
10回表、西武の4番・おかわりくんこと中村選手が、
レフトにでかい打球を放った。
「ああっ、やられた!」
そう思ったが、打球はレフト・フェンスを直撃、
なんとか二塁打でしのいだ。
直後、5番フェルナンデスへの初球、
「あっ、正直にいきすぎや、やばい!」
レフト線に持っていかれた。
中村、ホームイン。
うなだれる杉内、帽子を目深にかぶったまま降板。
号泣していた。
思えば昨年のロッテとのクライマックスシリーズ、
杉内は2敗を喫した。
きっと思ったに違いない。
「去年に続いて、今年もチームの力になることができない…」
ふがいない自分を責めていたのだろう。
だけど杉内よ、ここまでゲームを作ってきたのは君だ!
俺はかっこいいと思う。
10回裏、2アウト、ランナー2塁。
カウント3ボール・2ストライク。
追い込まれたソフトバンクの長谷川、
しかし次の打球、
なんと右中間を切り裂いた!
1対1、同点。
そう、野球は一人でやるものじゃない。
杉内よ、チームメートが敗戦投手から救ってくれたぞ!
西武の涌井も、ここでガックリきた。
が、おぬしも立派だったぞ。
延長12回裏、またも長谷川がヒット(この日4安打目)を放ち、
ソフトバンクはサヨナラ勝ちを飾った。
おめでとう、ソフトバンク、遂にポストシーズンの呪縛を脱しましたね。
8年ぶりの日本シリーズ、ご健闘をお祈りします。
第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)日本VSキューバの決勝戦の日、
せせらぎは合奏日でした。
テレビ観戦したくてしたくてたまりませんでしたが、仕方ありません。
イチローの日本代表ユニフォームを着て指揮しました、
Trb.の戸田君に試合の途中経過を教えてもらいながら。
この時の日本の4番は、ソフトバンクの松中です。
彼は、なぜか日本のプロ野球のポストシーズンになると、打てなくなってしまうのです。
そして、もちろん彼のせいだけではないのですが、
パ・リーグ優勝したにもかかわらず、
ソフトバンクはクライマックスシリーズを突破したことがないのです。
そんなの理不尽だと思いませんか?
1年かけたシーズンを勝ち抜いてきた苦労は、一体なんだったのでしょう?
僕はクライマックスシリーズという制度そのものに反対です。
セ・リーグ優勝チームとパ・リーグ優勝チームとでシンプルに日本シリーズやればいいんです。
以前のやり方に戻してほしいと切に願います。
ただし、現状のルールの中で、一度はソフトバンクに日本シリーズに進出してほしいと願います。
そんな訳で、11/4(金)の合奏では、秘かにソフトバンク応援グッズ、
というよりも松中応援グッズを身に着けていました。
ファイテンのラクワネックX50というやつです。
真っ赤な、まさしく「松中モデル」です。
やったぞ、松中!代打満塁ホームラン!
日本シリーズ進出まで、あと1勝だ。
頑張れ、ソフトバンク!
『かもめ食堂』はホントに大好きな映画のひとつだ。
ゆるーいテンポの中に、静かなクレッシェンドがあった。
お客さんが全くいないかもめ食堂が、
ラストには満席になるのだ。
『めがね』『プール』『マザーウォーター』と、
耐えに耐え続けてきたが、
『東京オアシス』では耐えるのをやめた。
ぐっすり眠らせていただきました。