みちのく一人旅

みちのく一人旅~その9~2011年12月19日

11月14日(月) 天気:晴れ 歩数:2629

盛岡で2万4千歩歩いたのに、この日はその10分の1。
十和田南駅から京都駅まで、殆んどを列車内で過ごしたせいです。
ゆっくりじっくり北上してきた「みちのく一人旅」、
最終日は一気に帰京です。

大湯温泉・龍門亭千葉旅館から十和田南駅まで送ってくれたタクシーの運転手さんに、
とても興味深い話を伺いました。
カメムシが大量発生する年は、
雪が多くて寒い冬になるのだそうです。
東北地方のじっちゃん、ばあちゃんは、皆そう言うのだそうです。

確かに、
花巻の台温泉・中嶋旅館で、
やたらとカメムシが目につきました。
この運転手さんも、
あちこちでカメムシと出会っているそうです。

お年寄りの皆さんが伝えてきてくださったことには、
不思議と真実が潜んでいるような気がします。
さて、今年の冬はどんな冬になるのでしょうか?

京都⇔十和田南の往復で購入した切符、
前日は十和田南の2駅手前、鹿角花輪(かづのはなわ)までしか使っていません。
が、ご心配なく。
往復割引が効いているので、
これでいいんです。

宿のチェックアウト時刻の都合上、
十和田南駅に着いたのは午前10時過ぎ。
しかし、大館(おおだて)発・盛岡行きの快速「八幡平(はちまんたい)」の十和田南入線は11:23。
十和田南駅はスイッチバックとなっているので、
発車には少し時間がかかって11:28。
兎にも角にも約1時間半待ちです。

スイッチバックとなっている十和田南駅

 

この間、
切符の払い戻しにやってきた青年が一人。
旅行のチラシをやたらと取りに来たおばちゃんが一人。
計2人が駅を訪れただけ。
新幹線の特急券をゆっくりゆっくり作ってくれた駅長さんと二人で、
まったりした時間を過ごしたのでありました。

十和田南駅で快速「八幡平」を降りた乗客、ゼロ。
乗りこんだのは私だけ。
4両編成の先頭車両に乗りましたが、
その車両の乗客は私を含め3人。
究極ですな。

快速「八幡平」

 

十和田南11:28発、花輪線快速「八幡平」、盛岡着13:28。
ぴったし2時間。
盛岡13:41発、東北新幹線はやて・こまち26号、東京着16:08。
所要2時間27分。
東京16:20発、東海道新幹線のぞみ239号、京都着18:41。
所要2時間21分。
時間感覚が変になりそうです。

はやて・こまち26号は、
盛岡を出たあと、仙台まで停まりません。
北上川流域に広がる世界を、ずっと眺め続けました。
新花巻、北上、水沢江刺…
もうすぐ平泉が見える頃だな、と思っていると、
列車は長い長いトンネルに入ってしまいました。
平泉の東方、束稲山(たばしねやま)の地下を新幹線は走るのでした。
トンネルを抜けて右後方を見つめると、
そこには中尊寺の建つ関山(かんざん)の姿が。
どんどん遠ざかり、遂に一ノ関を通過。
ああ、旅は終わったんだな…

※※※

やたらと石やら遺跡やらを巡る旅。
行く先行く先、殆ど誰とも出会わない旅。
自分だけのために設計したスピリチュアルな旅。

こんな「みちのく一人旅」に付き合ってくださった皆さん、
本当にどうもありがとうございました。
「指揮者のひとりごと」というタイトルに甘えて脱線を繰り返してきましたが、
究極の連作をやってしまいました。

親父に教えられた自分のルーツ、確かめられた訳ではありません。
しかし、かつて「奥六郡(おくろくぐん)」と称された岩手県の北上盆地、
そのゆったりした雰囲気が大好きになりました。

「道の奥」だから「陸奥(みちのく)」。
京都や奈良、あるいは東京から見て「東北」。
まつろわぬ民「蝦夷(えみし)」として蔑まれた歴史を持つ地。
今は遠く離れた京都に暮らす身ですが、
私の心は「みちのく」とともにあります。
いえ、「みちのく」とともにありたい、と強く思います。
いつの日か再び訪れます、必ず。

※※※

旅が終わっても全く疲れが出ません。
いや、むしろ旅立つ前よりも元気になりました。
リュックサックを担いで歩き回ったにもかかわらず、
信じられないことに、長年苦しんだ肩こりが消えてしまいました。
コンピュータに向き合うこともなく、
体を使って好き放題歩き回るというのは、
こんなにも健康にいいのですかな。

ただし、仕事に復帰後、
肩こりも復活してしまいましたが。。。

みちのく一人旅~その8~2011年12月12日

11月13日(日) 天気:雨→曇り→晴れ 歩数:11823歩

この日は、遂に雨の中の行動開始となってしまいました。
繋(つなぎ)温泉・四季亭で女将さんに傘を差しかけてもらいながらタクシーに乗り込み、
盛岡駅に向かいます。
駅で脱兎の如くタクシーから飛び降り、
花輪線のホームに向かいます。
何とか傘を使わずにしのぎました。

花輪線とIGRいわて銀河鉄道は、東北本線や新幹線とは別の改札口から入ります。
入口が分からないで迷っている人を散見します。

IGRいわて銀河鉄道・盛岡駅改札口

 

盛岡9:46発、花輪線の大館(おおだて)行き普通で鹿角花輪(かづのはなわ)へ。
花輪線は「十和田八幡平四季彩ライン」という愛称がついています。
岩手山も、安比高原(あっぴこうげん)も、八幡平(はちまんたい)も美しかった!
と書きたいところですが、
雨に煙って近景しか見えませんでした。
とほほ…

しかし、徐々に雨が上がっていき、雲も切れてきました。
11:41、鹿角花輪着。
なんと、駅に降りた途端に日がさしてきました!
自分自身の晴れ男っぷりにビックリです。

秋田県鹿角市。
鹿角花輪駅の近くには「花輪朝市」というのもあり、
いい感じで賑わっています。
(ただし、私が着いたのは昼前なので、朝市の片付けを見ただけですが…)
こじんまりした街ですが、
古くて味わいのある商店があったり、電線は地下化されていたりで、
街歩きするだけで風情があります。

「食堂平和」という町の食堂に飛び込み、
味噌ラーメンを頼みましたら、
これまた花巻で食べた味噌ラーメンに勝るとも劣らず、
旨くて、でかくて、安い!
600円でした。

※※※

そういえば、
前の日の盛岡では、
岩手大学近くの「盛岡食堂」という町の中華料理屋さんに飛び込み、
盛岡名物「じゃじゃ麺」をいただきました。
これまたすごい分量で、さらに「チータンタン」という卵スープもついて、
500円!
どうなっているんでしょうか!

※※※

昼食後に向かったのは、史跡・尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)。
1300年の歴史があります。
現在は廃鉱となっていますが、かつては金も産出しました。
そう、ここも平泉の黄金文化を支えた拠点のひとつだったのです。

石切沢通洞坑という、1.7キロの観光坑道が整備されていて、
ひんやりした地下を歩き回ることができます。
観光坑道として整備した際、新たに銅鉱脈が見つかったそうです。
ピッカピカでした。

尾去沢鉱山・石切沢通洞坑

それにしても、坑道内で出会ったのは老夫婦一組だけ。
またもやほとんど一人っきりの探訪です。
採掘の様子を再現した人形がリアルすぎて、
今にも動き出しそうな感じ。
怖い。
もしも落盤事故が起きて、このまま生き埋めになったら…
やたらとチキン・ハートが疼きだし、
足早に出口に向かったのでありました。

次のポイントは、遂に旅の最終目的地となる、
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)。
「えさし藤原の郷」でアラハバキのご神体のモデルとされたのが、
ここ、大湯環状列石です。

大湯環状列石
実際には、
縄文時代のお墓であり、日時計であり、祭祀の場だったようです。
何にしても不思議な空間であることには違いありません。
世界遺産登録を目指しているそうです。

それにしても、
平泉の毛越寺(もうつうじ)庭園の立石と、
大湯環状列石はそっくり。
と、私には思えます。
何か関連性があるのでしょうか?

そして最後の宿泊地、
大湯温泉・龍門亭千葉旅館にやって来ました。
日本庭園の紅葉が見事で、
トップシーズンの予約が困難らしいのですが、
奇跡的に泊まることができました。

大湯温泉・龍門亭千葉旅館

源泉100%掛け流しの露天風呂からも紅葉を見ることができます。
夜はライトアップしてくれていますし、
朝は霧に佇む紅葉を鑑賞できます。
この上ない贅沢を堪能させていただきました。

みちのく一人旅~その7~2011年12月6日

11月12日(土) 天気:霧→曇り→晴れ→雨 歩数:24196

花巻の朝も霧。
幸い、前夜の雨は上がりました。
花巻温泉郷の台温泉・中嶋旅館が霧の中に幻想的に佇んでいます。

この日は遂に盛岡に入ります。
奥州藤原氏の前身である安倍氏が滅ぼされ、
藤原清衡(きよひら)の父・藤原経清(つねきよ)が刑死させられた
前九年合戦最後の戦場・厨川柵(くりやがわのさく)がある地です。

花巻9:33発、快速はまゆり2号に乗車。
この列車は釜石を7:40に出発、2時間弱かけて花巻に到着したものです。
盛岡着は10:02。
花巻を出発するときはまだ曇っていましたが、
盛岡に着く頃にはすっかり晴れ上がりました。

盛岡駅から厨川柵跡まで約2.5キロ、
北上川沿いの県道を歩きます。
遺跡まであと500メートルの地点に、館坂橋(たてざかばし)というのがあります。
ここから上り坂になっていきます。
厨川柵跡がある場所の地名は、安倍館町(あべたてちょう)。
(近くには前九年という町名もあります)
いわゆる河岸段丘だと思いますが、
北上川を見下ろす丘の上に、遺跡はありました。
(説明板には安倍館遺跡(あべたていせき)と書いてありました)
ここが城柵だったと感じさせるものは濠の跡だけですが、
天然の要害だったことは容易に想像できます。

遺跡内には「安倍館稲荷神社」、
その隣には「貞任(さだとう)宗任(むねとう)神社」がありました。

貞任宗任神社
安倍貞任は安倍頼時亡き後、安倍氏の棟梁となり、
ここ、厨川柵の城主でした。
安倍宗任は、2日前に訪れた鳥海柵の城主で、貞任の弟。
貞任は戦死、宗任は捕われて伊予国に流されました。
紅葉が血のように赤く染まっていました。

遺跡を訪ね歩くと、いつも私一人っきりでしたが、
厨川柵跡では、初めて二人になりました。
50歳代半ばといった感じの男性が先に訪れていたのです。
何か話をしようと思ったのですが、何となく気恥ずかしくて、
「こんにちは」と言ったきりでした…

館坂橋を渡った向こう側を、館向町(たてむかいちょう)といいます。
ここから厨川柵跡を眺めてみます。
北上川を渡り、断崖をよじ登って城柵に取りつくのは、
かなりの困難を極めたと思います。

館向町から2キロ程行くと、高松神社があります。
安倍氏と戦った源義家(よしいえ)が陣を張ったという小高い丘です。
確かに、厨川柵跡がよく見渡せました。

近くの高松ノ池から西のほうを仰ぎ見ると、
岩手山の山容が青空に、そして池に美しく映えていました。

高松ノ池と岩手山

ここまでで結構歩いています。
おそらく10キロを超えているかと。
特に厨川柵近辺では、何か歴史の痕跡はないかとウロウロしまくりました。

厨川柵跡の紅葉
初めての土地を地図を見ながら行ったり来たりするものですから、
かなり足にきています。

高松ノ池から国道4号に出たところで、
流しのタクシーを捕まえようと思ったのですが、
国道なんてのはいろんな車種がビュンビュン飛ばしているものの、
意外とタクシーは走っていないもんですね。
次の目的地、三ツ石神社まで約3キロ、やっぱり歩くことにしました。

 

三ツ石神社には巨石が3つあります。

三ツ石神社
大昔、この地で悪さをしていた鬼を神様が捕まえ、
三ツ石に縛り付けたそうです。
二度と悪事を働かないと約束した証拠に、
鬼はこの巨石に手形を押したそうです。
「岩手」という地名の由来だと聞きました。

「鬼の手形」は見える人には見えるらしいですが、
私には分かりませんでした。

~さすがに疲れました。
歩数計によりますと、約20キロ歩いたようです。
三ツ石神社を出たところで流しのタクシーが見つかったので、
盛岡駅まで乗せてもらいました。
約4キロといったところでしょうか。

駅のコインロッカーでリュックサックをピックアップし、
この日の宿、繋温泉(つなぎおんせん)・四季亭に向かいます。

この温泉を見つけたのは、源義家と伝わります。
義家は、愛馬の傷をこの湯で洗ってやると快癒したので、
穴のあいた石に愛馬を繋いで自身も湯に浸かったそうです。

「繋石(つなぎいし)」は、四季亭の2軒横にありました。

繋石

 

※※※

疲れた足を癒すべく、私も繋温泉に浸かっていましたら、
またもや雨が降ってきました。
昨夜も花巻で雨が降りましたが、
朝には上がっていました。
今夜の雨はどうなるものやら…

みちのく一人旅~その6~2011年12月4日

11月11日(金)続き

濡れたお尻もすっかり乾きました。
「えさし藤原の郷」から次の目的地に移動します。

…それにしても、一日一稿にまとめられなくなってきました。
まるで『ハリー・ポッター』の後のほうの巻が上下に分かれたように。
(↑ そんなええもんちゃうぞ!と独りで突っ込む)

水沢12:48発、普通・盛岡行き、花巻着13:15。
午前中晴れていたのに、
だんだんと雲が垂れ込めてきました。
今にも降り出しそうです。

何となくラーメンが食べたい。
そんな訳で駅前をウロウロしていますと、
小さな食堂街に行き当たりました。
その中の一軒に飛び込んで、味噌ラーメンを頼みました。
ビックリしました!あまりのでかさに!
よくお目にかかる丼鉢の1.5倍くらいあるのではないかと思われます。
(花巻ではこれが普通サイズなんでしょうか?)
具もたっぷり。
麺もたっぷり。
さらにコーヒーまでついて、630円!
安さにまたビックリです。

駅前に戻ってタクシーに乗車、
「すみません、丹内山神社(たんないさんじんじゃ)に行ってください。」
どうせまた地図見せたり、いろいろ説明しないと無理なんやろな、
と思っていると、
「丹内山神社、はい、分かりました。」
運転手さんへの説明なしでの行動開始、この旅で初めてです。
何だかホッとしました。

花巻市の東に遠野市があります。
その途中、東和(とうわ)という地に丹内山神社はあります。
森閑とした境内を訪れる人、
またもや私のほかに誰もいません。

丹内山神社のご神体は、「胎内石」という名の巨石です。
高さは4~5メートルあるでしょう。
奥行きもやはり4~5メートルといったところでしょうか。
横の長さは10メートル以上だと思います。
ぐるりと注連縄がかけられています。

丹内山神社の胎内石

 

胎内石にはアラハバキの神が宿るそうです。
またもやアラハバキの神の登場です。
やはり、謎です。
ただ、奥州藤原氏や物部氏の崇敬を受けていたことは確かなようで、
説明板にその旨はっきり書いてありました。

胎内石の中を、壁面に触れずにくぐり抜けると大願が゙成就され、
また触れてしまったとしても通り抜けることができればいいことがある、
と説明版に書いてありました。
そんな訳でトライするのですが、狭くてとても無理。
よっぽど細い人なら通り抜けるくらいはできるかもしれませんが、
触れずになんて、とてもとても。

胎内石の隙間
私の場合はお腹と背中が石に挟まれました。
必死で何とか頑張ったんですが、
このままつっかえて動きが取れなくなったら、
誰も助けに来てくれそうにありません。
(胎内石は神社の駐車場からずっと上のほうにあり、
運転手さんにも気づいてもらえそうにありません)
…諦めました。

※※※

この日の宿泊は、花巻温泉郷のひとつ、台温泉。
中嶋旅館は『千と千尋の神隠し』の油屋のような外観。

台温泉・中嶋旅館の外観
内装も素晴らしく、黒光りする擬宝珠など、ピカピカに磨き上げられています。
もちろん、お湯も最高!
せせらぎの皆さん、練習してはるところ、申し訳ございません。

…この日の夜には遂に雨が降り出しました。

みちのく一人旅~その5~2011年11月30日

11月11日(金) 天気:霧→晴れ→曇り→雨 歩数:9079

すごい霧。一面、真っ白。
北上川流域の冬の朝としては、ごく普通のことだそうです。

そんな霧の朝に向かったのは、珍しく、史跡ではありません。
歴史テーマパーク「えさし藤原の郷(さと)」です。
前九年合戦・後三年合戦・奥州藤原氏の興亡をテーマにしています。
大河ドラマや映画のロケにもよく使われています。
よく、「協力:奥州市(以前は江刺市)」というクレジットを見ませんかな?
ほぼ間違いなく、ここでロケが行われたということです。

京都で言えば「東映太秦映画村」に似ているかもしれません。

できたのは、1993年。
大河ドラマ『炎立つ(ほむらたつ)』も1993年。
テーマパークに合わせてドラマができたのか、
ドラマに合わせてテーマパークが作られたのか、
その辺のことはよく知りません。
ただ、一番最初にロケでここを使ったのが『炎立つ』なのは確かです。

笑えるのは、フジテレビ『逃走中』でもよく使われていることです。
園内に、その案内板がたくさんありました。
まぁ、確かに隠れる場所、いっぱいあるけど…
とにかく、私が訪れた日にロケがなくて一安心です。

到着してまずはじめにしたのは、
大きなリュックサックからデイパックに最低限の荷物を移す作業。
手頃なベンチがあったので、気にせずベタッと座って。
作業が終わって立ち上がると、何やらお尻が冷たい…
ベンチが濡れていたのでした。

そう、この時点では霧は晴れ、日が射しているものの、
朝から霧が立ち込めていたのでした。
ついでに言うと、霜も降りていました。

前日とはうって変わった寒さ。
最小限に絞り込んで持ってきた着替えの中から、この日の朝、
冬仕様のズボン下(ユニクロのヒートテック)に履き替えたばかりだったのです。
「着替えた途端に汚したり濡らしたりする」
旅のジンクスは生きています。とほほ…

「政庁」を再現した朱塗りの建物で、
着物ではないけれども、何となく平安時代っぽい装束を着た、
女性スタッフに呼び止められます。
(眼鏡は仕方ないにしても、足元がスニーカーなのはどうしたものか…)

えさし藤原の郷の「政庁」

「朝一で来てくださったんですか!ありがとうございます!」
とてもハキハキして、気持ちよい応対です。

そういえば、私の朝は早い。
宿に着いて、まずお風呂をいただき、18時に夕食(もちろん、呑む)。
もう一度お風呂に入って、歯を磨いたら、21時には意識朦朧。
灯りを消してお布団に潜って、気が付いたら朝の3時とか4時とか。
朝風呂に入ってから二度寝したら、もう朝食の7時。
そりぁ、どこ行っても朝一です。

「この政庁には、歴史がよく分かるパネルが展示してありますよ。
じっくりご覧ください。」と、先程の女性スタッフ。
はい、ありがとね。ほんじゃ、ゆっくり観させてもらいますわ。
って行ったっきり、おそらく15分~20分、じっくり読んでたものだから、
女性スタッフ、手持ち無沙汰だったんでしょうね。
携帯でメールを読んではりました。
(他にお客さんもいないしねぇ)

慌てて携帯をしまう女性スタッフ、
「今日はお時間ありますか?
じっくり体験コースだと、2時間くらい、
お急ぎコースだと、40分くらい。
どちらになさいます?」
そらまぁ、せっかく来たんだから、じっくり行きますわいな。

ってことでじっくり体験コースを歩き出すんですが、
お急ぎコースに合流するまでの約2時間、
全く誰にも会いませんでした。
またもや一人っきりです。

「経清(つねきよ)館」と名づけられた、
「豊田館(とよだのたち)」を再現した建物の一部は、
東日本大震災のために損壊しており、工事中でした。

2日前に訪れた「河崎柵」や、
翌日盛岡で訪れる予定の「厨川柵(くりやがわのさく)」が再現されていて、
とても興味深く見学いたしました。

河崎柵

 

が、覆堂なしで再現された「金色堂」、そして「無量光院」。
これらはおもちゃでしたな。

ところで、「アラハバキ」が再現されているところがありましたが、
この「アラハバキ」って、一体何なんでしょう?
私なりに勉強して行ったのですが、
実は今もってよく分からないのです。

アハラバキ

 

高橋克彦さんの『炎立つ』では、
安倍氏や奥州藤原氏を陰で支えた物部氏が信仰したのが「アラハバキ」の神。
古代東北の民俗信仰のようなのですが、
やっぱりよく分からない。

ここ「えさし藤原の郷」では、
秋田県鹿角(かづの)市にある「大湯環状列石」をモデルに、
信仰の対象であった神の宿る「石」を再現しています。

再現しただけの「石」であるにもかかわらず、
夥しい数のお賽銭が置かれていました。
中には石の割れ目に押し込まれた賽銭も…
園内の一番奥であることもあり、森閑とし、
とても厳かな雰囲気が漂っていました。
本当に再現しただけの「石」なのでしょうか?
実は、密かに物部氏の子孫が建てたものだとか?
作った後、本当に霊が宿ったりしたとか?

※※※

さて、12月10日公開の映画『源氏物語-千年の謎-』のロケ、
やっぱりここで行われました。
生田斗真君(光源氏)が朱塗りの御殿の前で舞うCMをよく見ますが、
あれはきっと「政庁」でロケされたのだと思います。

勤務先に派遣社員としてきてくれているとある女性が、
生田斗真君の大ファンで、
ロケ地に行ってきた話をすると、
えらく喜んでいました、最初は。
でも、彼女自身が行った訳ではないのです、
私がこのネタをしつこくするもんだから、
最近、何だか冷たいような…

みちのく一人旅~その4~2011年11月28日

11月10日(木)続き

もし次に来ることがあるなら、まず山登り専門店で準備を整えてからにしよう。
せめて熊除けの鈴ぐらい持っとかんといかんな…

さてさて、毛越寺(もうつうじ)に到着。
創建当時の建物は失われていますが、浄土庭園の美しさは目を瞠るばかりです。
池の青、草地の黄緑色、木々の緑、そして紅葉。
これらのコントラストが特に美しく、
写真をバシャバシャ撮ってしまいました。

毛越寺 浄土庭園

毛越寺の東隣が、旧観自在王院庭園(きゅうかんじざいおういんていえん)。
こちらも建物はありませんが、史跡公園としてきれいに整備されています。
京都・木津川市の浄瑠璃寺で予習してきた甲斐がありました。
(池の形がなぜかそっくりなのです)

ここに「オンドウ仏」という石仏があります。
風化が激しいのですが、3年前に発行された岩手日報社のガイドブックでは、
ちゃんとした、と言ったら変な言い方ですが、
普通の仏像の姿をしていらっしゃったのです。

が、私が見たのは、頭が落ちた姿でした。
頭は坐像の横に置いてありました。
きっと、東日本大震災で首が取れたのだろうと思います。
心が痛みました。

※※※

中尊寺だけで長文になってしまったので2回に分けた11月10日。
少し日が傾いてまいりました。
思えば、前日の午後から平泉に滞在したわけで、
探訪だけ抜き出しても優に9時間はかかっています。
いわゆる旅行ガイドには、
「平泉をじっくり見て回って、約3時間」って書いてあったのに…

それでも名残惜しい平泉。
いつかまた訪れたいと思いつつ、次の目的地に向かいます。

平泉14:46発・普通盛岡行きで水沢へ(15:09着)。
ここでタクシーに乗り、
「すみません、豊田館跡(とよだのたちあと)と、
鳥海柵跡(とりみ(または「とのみ」)のさくあと)に連れて行ってください。」
ここでも運転手さんにキョトンとされてしまいました。
私が行こうとするところ、そんなにマイナーなんでしょうか。
ちょこっとだけ滅入ってしまいましたが、
気を取り直して用意してきた地図を見てもらいます。
地図さえ見せれば、さすが地元のドライバーさん、
スイスイッと連れて行ってくれました。

豊田館とは、前九年合戦の時代、
藤原経清(つねきよ)と、
その妻で、安倍頼時(よりとき)の娘である結有(ゆう)が暮らし、
二人の息子で、のちに奥州藤原氏初代となる藤原清衡(きよひら)が生まれ育った城館だと伝わります。

また、後三年合戦では、
清衡の弟、家衡(いえひら)が攻め寄せ、清衡の妻子が殺された場所です。

後三年合戦の勝者となった清衡は、平泉進出までの数年間、
ここに城館を再建し奥州を治めたそうです。

豊田館跡

今では、こじんまりした史跡公園となっています。
遺構などは未確認らしいのですが、きっと、ここです。
そう信じて、空気をいっぱい吸い込みました。

次に連れて行ってもらった鳥海柵は、
安倍頼時の息子の一人、安倍宗任(むねとう)の城柵であったところ。
安倍頼時は、前九年合戦の最中、
ここ鳥海柵で亡くなったそうです。

鳥海柵跡

今ではすぐ横を東北自動車道が通っています。
車が高速で駆け抜けていく、ある意味ダイナミックな地です。
深い堀の跡が残っていて、堅牢な守りであったことがうかがえます。
うっかり足を踏み外したら、タクシーの運転手さん、助けてくれるだろうか…
ふと、そんなことを思う浮かべたら、
もう見学は十分だ、帰ろう、となりました。

豊田館も鳥海柵も、またまた見事に私一人。
ただし、どちらも駐車できるスペースと遺跡がそんなに離れていないので、
何かあっても見つけてもらえる場所でしたが。

さて、この運転手さん、10年前まで確か神奈川に住んでいたとおっしゃっていました。
親御さんが定年退職で郷里の岩手に戻ることになった時、
一緒に移り住み、タクシーの運転手になったそうです。
なので、有名な観光地ではない場所、分からなくて当然です。
(私が行きたい場所にスッと連れて行ってくれるドライバーさんがいるのか、
それでも不安ですが…)

この運転手さんに、
「どうぞいい旅をお続けください。
そして、東北のことを忘れないでください。
できれば、また訪ねてください。」
と、大変温かい言葉をかけていただきました。

ご心配なく、ぜったい忘れませんよ。

みちのく一人旅~その3~2011年11月24日

11月10日(木) 天気:晴れ 歩数:17097

前夜の宿泊は、奥州平泉温泉・そば庵しづか亭。

平泉駅から車で10分ほど西に行ったところ、
山里の中にポツンとある一軒宿です。
「そば庵」と謳っているだけあり、打ちたての新そばをいただきましたが、
これがすこぶる美味でありました。
1日3食、1週間続けてそばでも構わないとくらいそば好きの私ですが、
「わんこそば」が有名な岩手で食べた、これが唯一のそばでした。
なぜでしょう?

さて、朝の9時、この日の行動開始です。
宿のワゴンで平泉駅まで送ってくれます。
運転手のおばちゃんに、
「今日はどこに行く予定ですか?」
と尋ねられました。
「中尊寺に登って、それからウォーキングトレイルで山から下りて、
ちょうど下りたところに毛越寺(もうつうじ)があって、
その隣に旧観自在王院庭園(きゅうかんじざいおういんていえん)があるので、
それだけまわったら平泉駅からJRに乗ります。
今日は水沢に泊まります。」

と応えました。
すると、
「えっ、ウォーキングトレイルを歩くんですか!?
あそこは熊が出るかもしれませんよ。
まっ、熊のほうも怖がって出てこないでしょうけど。
はっはっはっ!」
おいおい、おどかすなよ…

 

前方に、平泉の町並みが見えてきます。
北上川には川霧がかかっています。
その向こうにそびえる青空をバックにした束稲山(たばしねやま)が聳える、
何とも気持ちのいい朝。
それでは登山開始です。

中尊寺の表参道を、月見坂といいます。
いきなり急な上り坂ですが、しばらくするとなだらかな坂に変わります。
杉並木の気持ちいい参道にあるお堂を、一つ一つ丹念に参っていきます。

中尊寺参拝ももちろん重要なのですが、
私にはもう一つ重要な目的がありました。
それは、中尊寺の北を流れる衣川(ころもがわ)を観ることです。

中尊寺は、関山(かんざん)という山にあります。
現地に来て実感したことですが、
関山と束稲山に囲まれた狭い

平野部の真ん中に北上川が流れる。
平泉はそんな地勢です。

京都と大阪の境を成す大山崎も、
二日前に訪れた阿津賀志山(あつかしやま)も、
ここ平泉も、
要害の地であることがよく分かります。

関山の北を流れる衣川は

前九年合戦の舞台となったところであり、
衣川の北側は、奥州藤原氏の前身である安倍氏の本拠地なのです。
衣川の北側まで歩き回るのは時間的にも難しかったので、
せめて中尊寺から観させてもらうことにしたのでした。

いよいよ金色堂に到着です。
一体どこからこれだけの人が湧いてきたのかと思うほど、観光客でいっぱいです。
世界遺産、恐るべし!
なんか久しぶりに、大阪の梅田に来たのかと思うほどでした。
団体の隙間をついて、金色堂にお参りしました。

中尊寺金色堂

それはそれは、金色です(当たり前か!)
いや、その、歴史書や旅行ガイドにいろいろな表現で書いてありましたが、
私としては、正直、言葉を失う美しさに圧倒されました。
藤原清衡(きよひら)の恒久平和への祈りが込められているのですね、きっと。

 

金色堂の隣に、讃衡蔵(さんこうぞう)という宝物館があります。
殆んどが国宝クラスという、物凄いところです。

その中に、「中尊寺建立供養願文(がんもん)」というのがあります。
原本は失われ、南北朝時代に写されたものが展示されています。
だからでしょうか、これは国宝ではなく、重要文化財です。

1126年、中尊寺の落慶法要の際に藤原清衡が読み上げたもので、
人間だけでなく戦で死んだあらゆる生き物の霊を弔い、
奥州の平和を祈ったこの願文には、
藤原清衡の悲願が込められています。
歴史書の中で何度も何度も読み返してきました。
そんなことを思っていると、不意に体中が熱くなり、
思わず知らず、ポロポロと涙を零してしまいました。

※※※

さて、心を鎮めてウォーキングトレイルで毛越寺に向かいましょう。
それにしても、私しかいません。
観光客の皆さん、やっぱり表参道の月見坂を下りるのでしょうか?

で、入り口に立つと、「熊出没注意」と書いてあるではありませんか!
いや、大丈夫、とにかく歩くぞ、
と自分に言い聞かせて2~3分歩いてみたのですが、
だんだん怖くなってきました。
人のいないところばっかり巡っている旅ですが、
ここで誰もいないのは、本当にやめてって。

…スゴスゴともと来た道を引き返し、関山を下りるのでありました…

みちのく一人旅~その2~2011年11月23日

11月9日(水) 天気:晴れ→時雨→晴れ 歩数:17622

福島の飯坂温泉「なかむらや」さんは、本当に温かいお宿でした。
「ひと」が温かいのですね。
そして、自家製の豆腐とラジウム玉子がすごく旨かった!

でも、震災当初の話をお聞きすると、やはり心が痛みました。
「温泉」以外のライフラインがすべてストップしたそうです。
電気が復旧したのが、約10日後。
このときに始めて津波のことを知ったそうです。

温泉街を歩いていると、廃業したと思われる宿も見掛けました。

飯坂温泉の近くには、
源義経に付き従った佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの医王寺(いおうじ)もあるのですが、
ここの探訪はまたの機会といたしましょう。

さて、この日は飯坂温泉駅を8:30に発車、
福島交通飯坂線で福島駅到着が8:54。
福島9:20発やまびこ125号で仙台着が9:41、
仙台9:43発はやて103号で一ノ関着10:22。

前日は駅にいなかったタクシーですが、
一ノ関駅は大丈夫でした。
何せ新幹線の停まる駅ですから。

運転手さんに頼みます、
「河崎柵跡(かわさきのさくのあと)と、
黄海古戦場跡(きのみのこせんじょうあと)に行ってください」と。
キョトン、とされてしまいました。
予測された事態であります。
用意してきた地図を見てもらいながら、連れて行ってもらいました。

ともに、前九年合戦中盤戦の重要な史跡です。
河崎柵を出陣した安倍軍が、源氏軍に大勝したのが黄海です。

河崎柵跡

最初、怪訝な表情で連れまわしてくれた運転手さんでしたが、
史跡の説明版を読むうち、
みちのくの歴史に興味を持ってわざわざ京都から来たことに、
大層感激してくれたのでした。

一ノ関駅に戻る車中、時雨に遭いました。
が、車から降りるときには、雨はすっかりあがっていました。

一ノ関12:23発、普通・盛岡行きで、平泉着が12:32。
いよいよ奥州藤原氏の本拠地にやってきました。

コインロッカーにリュックサックを放り込み、
予め用意しておいたデイパックに必要最小限の荷物を移し変え、
ここからは徒歩で探訪です。

とてもいい天気です。
が、翌日以降の天気を危ぶむ噂をあちこちで耳にします。
先程も時雨に遭ったばかりです。
この日のうちに、山の上にある中尊寺まで登るべきか、
それとも中尊寺は翌日に回し、
この日は平野部をウロウロするか、迷います。

冷静になって天気予報を調べたら、
気温は下がるものの、
翌日も晴天が続くと出ています。
よって、この日は平野部を探訪することにしました。

まずは駅から一番近い「伽羅御所跡(きゃらごしょあと)」に向かいます。
ここは説明版が立っているだけです。
誰もいません。

次に向かったのは「柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)」。
世界遺産からは外れたものの、
立派な史跡公園に整備されていました。
が、やっぱり誰もいません。

柳之御所遺跡

中国の史書に「柳営」という言葉が出てくるそうです。
これは「武人による政府」を表すらしく、
「柳之御所」とは、まさに「武士の政府」を意味するそうです。
イイクニつくろう鎌倉幕府よりも前に、
実質的に「平泉幕府」があったと考えてもいいように思います。
だから僕には面白くて、ここに1時間半もいました。
でも、万人受けはしないのでしょうね。

宇治の平等院鳳凰堂を模して造られ、
それよりも一回り大きかったといわれる「無量光院(むりょうこういん)」。
ここも遺跡ですが、世界遺産のひとつ。
すると、途端に訪れる人が多いんですね。
不思議なもんです。
発掘調査が行われていました。
どんな発見があるのか、興味津々です。

その他にも、「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」や、
武蔵坊弁慶の墓と伝えられる石碑などを見て回ったのですが、
少し日が傾いてきました。

「高館義経堂から束稲山(たばしねやま)・北上川を望む」

【高館義経堂から束稲山(たばしねやま)・北上川を望む】

平泉駅に戻り、荷物をピックアップして、
次の目的地に向かうことにしました。
平泉から5~6キロ北に行った所にある、
「白鳥館遺跡(しらとりたていせき)」です。

ここは世界遺産から外された場所ですが、
北上川が大きく蛇行する地点に、
まるで半島のように突き出した地形を利用して作られた城の跡です。

「白鳥館遺跡から北上川を望む」

【白鳥館遺跡から北上川を望む】

タクシーに連れて行ってもらい、小一時間待ってもらったでしょうか。
またもや誰もいない、藪の中の探訪、
いや、探検と言った方がよさそうです。
要害の地であることが、よく分かりました。

探検を終えて、ホッとして帽子を取ったら、何やらニュルッと…
鳥の糞にやられていました。
そんな訳で、手もニュルッと…

毎日、何らかのトラブルに見舞われつつ、旅は続きます。

みちのく一人旅~その1~2011年11月22日

11月8日(火) 天気:晴れ 歩数:18276

これまで、こんなに一所懸命準備したことがあっただろうか、
旅だけでなく、せせらぎコンサートでも…
だからでしょうか、出発前夜、ドキドキしてあまり眠れませんでした。

「みちのく一人旅」出発当日は、こうして寝不足で明けました。
ですが、ワクワクしています。

京都8:42発のぞみ218号、東京着は11:03。
乗り継ぎはやまびこ259号、東京11:40発、福島13:11着。
福島からは在来線で、4駅先の藤田駅に向かいます。
14:00に福島を発車の仙台行き、藤田着は14:17。

初日の探訪目的地は、阿津賀志山(あつかしやま)防塁です。
1189年、源頼朝の奥州侵略に備え、
藤原泰衡(やすひら)が築いた防塁が残っているのです。
その最寄り駅が藤田駅。
藤田駅からはタクシーで向かうつもりでした。

ここでトラブル発生。
駅前にタクシーがいないのです。
「えっ!」
事前の調査では、そんな小規模な駅とは思えなかったのです。
が、実際には「タクシー乗場」すらない。
駅長さん(と言っても他に駅員さんはいない)にタクシー会社の名刺をもらい、
電話でタクシーを呼び寄せようと試みましたが、
予約が入っていて回せるタクシーはないとのこと。
どないやねん!

初日から予定変更か?
まあ、一人旅だから、誰に気を遣うこともないのだけれど、
ここまで来たんだから、やっぱり行ってみたいよなぁ~…
ということで、徒歩で向かうことにしました。
片道約5キロ、往復10キロの行程です。

ここで頼りになったのが「マップル」です。
つまり、昭文社の、東北道路地図。
これを買って、会社の後輩に「みちのく一人旅」の予定を話したとき、
散々笑われたものです。
「だって先輩、車の運転、しはりませんやん。
そやのに、道路地図って…」

しかし、マップルは歩くのにだって役立つのであります。
事実、この地図のおかげで、
このあと全く迷わずに「阿津賀志山防塁」にたどり着いたのです。

約50分かかりました。
車がビュンビュン通り、歩道がない道でしたが、
何とか無事たどり着きました。

阿津賀志山防塁

なんだか、どこかで見たことのある風景だな…
そう、大山崎によく似た地勢なのです。
天王山と男山に囲まれた狭い平地の真ん中を淀川が流れる、
あの大山崎です。
阿津賀志山とその向かいの山に囲まれた狭い平地に阿武隈川が流れるこの地は、
大山崎と同じく、
大軍が通過するにはここしかない、
という交通の要衝でした。

豊臣秀吉と明智光秀が戦った天王山の合戦はとても有名ですが、
ここ、阿津賀志山でも、
源氏の大軍と奥州藤原軍が激突したのでした。
源軍を防ごうとした防塁が残っていたのです。
すごく感慨深いです。

探訪を終え、藤田駅に戻り始めたのは、だいたい15:40。
西日が、山の端にかかりそうになっています。
そう、ここは東北の地なのでした。
日暮れが早い。
急ぎ足で戻りました。

藤田駅から福島駅に戻り、
福島交通飯坂(いいざか)線に乗り換え、
飯坂温泉に着いたのが18時頃。
既に真っ暗になっていました。
震災で壊れた部屋の工事もしておられましたが、
「なかむらや」さんが温かく迎えてくれました。

泊めてくれた部屋は、なんと10畳×3部屋=30畳!
さすがに30畳ぶち抜きは寒いので、
10畳の襖は閉めました。
それでも20畳占有、ええんかいな?

旅の準備2011年11月16日

7月3日、『第24回せせらぎコンサート』終了。
音楽面では9月に2つの演奏会を控え、
仕事上はアナログ放送終了と、その後片付けで大忙しの中、
東北地方探訪の旅の準備に取り掛かりました。

まずは高橋克彦さん著『炎立つ(ほむらたつ)』原作を読み直し、
探訪したいスポットをピックアップ。
これだけで9月半ばまでかかりました。

※※※

1051年、前九年合戦勃発(~1062年)。
日本史的に言えば、
陸奥(ざっくりいって岩手県)の豪族・安倍頼時(よりとき)の叛乱となるだろうが、
安倍氏からすれば、源頼義(よりよし)の奥州侵略戦争だった。

前九年合戦の最中(停戦中)、
源頼義の旗下にあった藤原経清(つねきよ)と、
安倍頼時の娘・結有(ゆう。小説上つけられた名前と思われる)が結婚。
二人の間に生まれたのが、のちの奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)である。

藤原経清は源頼義の真意を憎み、安倍軍に加わる。
これは源氏からすれば裏切り行為だった。

1062年、源軍は出羽(ざっくりいって秋田県)の清原氏の援軍により、
厨川(くりやがわ)柵の戦い(現・盛岡市)で安倍氏を滅ぼす。
捕えられた藤原経清は、敢えて刃こぼれさせた刀で斬首された。

源頼義は、思惑に反し朝廷に干されてしまう。
武士の台頭が恐れられたからだ。
陸奥と出羽は清原氏の支配となった。

結有は清原武貞と再婚させられる。
連れ子の藤原清衡は、敵の中で成長していくこととなる。

1083年、後三年合戦勃発(~1087年)。
ざっくりいうと、清原氏の内紛である。

この戦いの最中、清衡は妻子を殺される。
が、なんと源頼義の息子・義家(よしいえ)の協力を得、
清衡は最後まで生き残る。

源義家にも陸奥を我が物に、という野望があったはずだが、
父・頼義と同じく、朝廷から遠ざけられてしまう。
1087年、安倍氏と清原氏の遺産を受け継いだ藤原清衡が最後の勝者となった。
1189年の源頼朝の奥州侵略まで、
約100年に及ぶ平泉を中心とした楽土が形成される。

奥州藤原氏初代・藤原清衡が再興したのが中尊寺。
その落慶供養で、清衡は、
戦の犠牲となった人々を敵も味方もなく弔い、
さらには人間だけでなく、
戦の中で殺された鳥獣までも弔ったのである。

二代・藤原基衡(もとひら)の代表的建造物は毛越寺(もうつうじ)。
その妻は安倍頼時の孫で、観自在王院を開いた。

三代・藤原秀衡(ひでひら)は無量光院を立てた。
宇治の平等院鳳凰堂を模したといわれるが、
それよりも一回り大きかったらしい。

四代・泰衡(やすひら)のとき、源頼朝の侵略を受ける。
源氏にとり、奥州は宿怨の地なのだ。
阿津賀志山(あつかしやま。現・福島県国見町)で決戦するも敗退。
奥州藤原氏は滅亡する。

(以上、ざっくり、でございました)

※※※

平泉へ行くのは何の心配もありません。
世界遺産となった大観光地ですから、
迷わずにたどり着けるはずです。

問題は、今や史跡となっている場所。
一体どこなのか、特定する必要があります。
そのために関連史書7冊を約1か月で読破。
地図も4種類購入、
インターネットでも関連史料を調べ、
白地図に探訪スポットを書き込んでいきました。

時刻表を駆使し具体的な行動を固めていった結果、
『みちのく一人旅』の計画が出来上がりました。
仕事の調整、宿の予約もでき、
11月8日から11月14日までの6泊7日です。
せせらぎの練習も1回お休みさせていただきました。

乗車券は京都⇔十和田南(花輪線)の往復。
ポイント毎に途中下車を繰り返します。

では、旅立ちます。