鈴鹿、そして、セナ2010年10月27日
阪神タイガースが日本一になった1985年以降、
急速に野球熱が冷めていこうとしていた。
(仰木彬監督が近鉄バファローズの指揮を執るまで、
私の中で何かが変わろうとしていた)
そんな80年代の半ば頃、世の関心はF1に向かいはじめていた。
折しも、ホンダの大躍進、日本人初のF1レギュラードライバーとなった中島悟さんの話題で、
「プロ野球ニュース」までもが「F1ニュース」の感を呈していた。
私は、それでもまだかろうじてプロ野球を追っかけていたが、
たまたま出会った「F1地上の夢(海老沢泰久著)」という本の影響で、
完全にF1にのめり込んで行くことになった。
この本はエンジン・サプライヤーとしてのホンダの苦闘を綴ったもので、
まずはエンジニアリングの面からF1に接していくことになった。
思えば、小6の時、はじめて鈴鹿を訪れている。
あれは学年全体での卒業前イベントだった。
「国際レーシングコースでゴーカートに乗れるぞ」という噂がまことしやかに流れた。
男子のほとんどが色めき立った。
しかし、遊園地で遊べただけで、サーキットへの立ち入りは禁止された。
すごく残念だったのを覚えている。
そして2回目の鈴鹿来訪は、
「F1地上の夢」を読んだ年、1987年だった。
鈴鹿サーキットで初の日本GPが開催された年の、決勝前日の土曜日である。
免許取得後、初のマイカーであるトヨタ・カローラ(もちろん中古)を駆って、
鈴鹿に駆け付けたのだった。
チケットなんか持っていない。
ただ、その空気を味わいたかった。
正面ゲート前に乗り付け、短時間とはいえ真正面に車を停め、
公式プログラムを15冊買って帰った。
今では考えられない、全く無謀な所行といっていい。
この時も、やはりサーキットには足を踏み入れることはできなかった。
その翌年、3回目にして初めて鈴鹿サーキットに入ることになる。
1988年、アイルトン・セナが初のワールド・チャンピオンを獲得するレースを、
この目で目撃するのである。
その稿は次回に譲りたい。